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2025/12/21

わが町『池渕・根ケ原』を学ぶ感動の2時間

| by 石神井町池渕町会広報室
わが町『池渕・根ケ原』を学ぶ感動の2時間
11月30日(日)池渕町会を中心に30名以上の講演会
ふるさと文化館小宮佐知子先生のわかりやすいお話


わが町『池渕・根ケ原』を学ぶ感動の2時間わが町『池渕・根ケ原』を学ぶ感動の2時間

 11月30日(日)、「わが町『池渕・根ケ原』を学ぶ会(石神井町を中心とした地域を学ぶ)」が、石神井公園ふるさと文化館で開かれ、学芸員の小宮先生から応永2(1395)年8月以降の豊島氏の土地継承の系図という近世に始まった石神井の地名の由来や、江戸時代から明治大正昭和の資料に残るわが町の変遷について講演して頂きました。

 わが町は三宝寺池という湧水に恵まれた程よい海抜50メートルの台地に立地し、縄文時代暮らしやすかった土地らしいです。また弁財天信仰(弁天社:現在の厳島神社)に由来する江戸講中の連々の徒がたくさん訪れ各地から寄付するという今でいう観光ブームがあったり、大都市「江戸」の近郊農村として、麦の裏作の特産物「練馬大根」を生み出し野菜の生産地として発展したのがわが町なのだそうです。

 後半の講演は、いよいよ武蔵野鉄道が大正4(1915)年に開通したとき、住人らが身銭を切って石神井駅を開業したとか、鉄道会社も町の人々も一緒になってこの町の歴史や見所を宣伝し、鉄道完成の利便や喜びを現在も残る記念碑に表したとか、観光地化を推進するのにわが町の人々は自ら結成した社団法人石神井風致協会でやったとか、戦前の先人たちの活躍と苦心を情熱的に語ってくださいました。

 石神井は昭和の混乱期には一時的に防空緑地にまで落ちぶれたらしいですが、戦後は昭和34(1959)年3月に都立石神井公園として開園し、東京復興に伴い宅地化が進み急激に人口も増加します。このあたりからは講演を聞く30数名の面々は自己の成長と生活の記憶が重なりはじめ、小宮先生のお話に追体験する気持ちで耳を傾けているみたいでした。

 2時間弱の講演時間にはあまる内容の、それも初めて耳にするわが町の先人と歴史の話題は、次の世代にもしっかり伝えていきたいという気持ちを抱かせ、少なからぬ住民の誇りのような思いをむねに会場を後にしました。小宮先生ほんとうにありがとうございました。

 令和7年11月30日(日)午後2時~3時30分 
 石神井公園ふるさと文化館 多目的会議室
 ふるさと文化館学芸員 小宮佐知子先生講演


10:08
石神井町池渕町会の活動の全体イメージ
 
石神井町池渕町会の町会長挨拶
町会長 栗原文一のご挨拶

町会長栗原文一さん 石神井町池渕町会は、石神井町三丁目一部、五丁目、六丁目一部(西側)、七丁目一部(西側)のエリアで構成される町会です。

 都立石神井公園(石神井ボート池側)を背景にした自然豊かな住宅地の町会で、公園内の稲荷諏訪合神社を活動の拠点としています。

 エリア内にはJA東京あおば石神井支店、石神井公園ふるさと文化館、石神井図書館、道場寺、禅定院などがあり、自然環境とともに文化の香り高く、たいへん恵まれた生活環境の町会であります。

*石神井公園駅から歩いて
 約10分程度
*石神井公園ボート池の周辺
*石神井小学校に近い
*石神井中学校に近い
石神井図書館に近い
*お寺や神社や教会あり

*JA東京あおば石神井支店あり
石神井公園ふるさと文化館あり
*野菜畑や樹木が広がる自然環境

主な組織と年間活動は、

①防災会

 夏季防災訓練
 ・どじょう掴み
 ・すいか割り
 ・花火
 軽可搬ポンプ操法大会の参加
 (事前練習5回)
 防災会主催の年末夜警(三日間)
②防犯部
 春と秋二回の地域安全安心の集い
 キャンペーンに参加
 防犯部主催の年末夜警(二日間)
 月一回の防犯パトロールカー運行
 パトロール団体パネル展に参加
③女性部
 稲荷諏訪合神社の清掃
 その他親睦会
④寿会
 親睦会
 バス旅行
⑤ソフトボール部
 4月~11月毎週1回の練習
 と紅白ゲーム実施
 総会&納会、ビアパーティー
⑥その他の定例活動
 全85班毎の回覧(月2回)
 掲示板運営
 資源ごみの共同回収
 総会&役員会
 新年会

 等々の活動を推進して、その活動は石神井消防署、石神井警察署をはじめ外部の関係機関から高い評価をいただいております。
 特に毎年開催される石神井消防署主催の軽可搬ポンプ操法大会においては五連覇、四年連続ワンツーフィニッシュしています。

 以上、「楽しい町会」をモットーにして活動する石神井町池渕町会です。
 
池渕町会の活動チラシ
石神井・池渕の今と昔(前編)
石神井・池渕の今と昔(前編)

 三宝寺池と池渕
 石神井川の上流にある三宝寺池は、武蔵野台地の地下水が湧き出て、その水が谷部にたまってできた池だと言われていますから、古来湧水量が多く清らかな水が四季を通じて満々とたたえられていました。そして、水の湧き口近く、水温の低いところにはミツカシワ、シャクジイタヌキモなど、珍しい湿性植物(昭和10年に沼沢植物群落として国の天然記念物に指定)が群生し、魚もハヤ、ウグイ、タナゴなどが豊富で、その水面にはカモ、カイツムリ、バンなどの水鳥が生息し、池の周辺に繁茂するスギ、ヒノキなどの針葉樹、落葉樹の枝から枝へは、野鳥や昆虫類がわがもの顔に飛び交っていたと言われています。

 その後、東京都は池の周辺を石神井公園として指定し、三宝寺池から流出する水をせき止めて石神井池を作り、景観に恵まれた行楽の場所として親しまれてきましたが、ここ数年来、湧水量は減少する一方で、水位も枯渇し、時には池底にひび割れが生ずるほどの減水が目立ってきました。また、天然記念物の沼沢植物群落や野鳥類の憩いの場も年々荒廃の道をたどっている有様です。「石神井の史跡と緑を守る会」など、現状を憂える住民運動がようやく積極化してきております。(*この文章は平成27年の会員名簿より転載。現在は、住民や都や区の努力が実り、すっかり改善されました。)

 池渕の町会は、池渕の古字名(あざな)でも明らかなように、三宝寺池の渕に住む住民たちの集まりでもありますから、ここに住む仲間たちは、武蔵野の面影をとどめる自然の宝庫三宝寺池とその周辺の風致を保存し、その遺跡を子孫に伝える重要な使命を負っている、ということができるでしょう。

 

石神井川と武蔵野
 水の乏しい武蔵野にあって、三宝寺池から流れ出る石神井川の清流は、古き人たちに飲料水を提供し、また、水田開発のために大きな役割を果たしました。そして、鎌倉時代には、石神井川沿いの関東武蔵野一帯が、政治上、交通上の重要な地域に発展しました。
 現在、三宝寺池の中之島にある弁才天は、水利に感謝する誠を捧げるために作ったもので、江戸時代には参詣人も多く、特に巳待ち(みまち:巳の日は弁才天の縁日の夜にはにぎわったと伝えられています。文政10年 (1827年)の「巳待万人講名簿」によると、石神井川の恩恵を直接受けていない江戸一帯の40余ヶ町村の人々もこれに加わり、広く信仰されていたことが分かります。こういう言われから石神井川のことを弁天川とも言っております。

 
石神井・池渕の今と昔(後編)

石神井・池渕の今と昔(後編)

 六井の郷から石神井郷へ
 地名が石神井と言われる以前の名は六井の郷と呼ばれていましたが、これは郷内に湧出する井戸が 六ヶ所あったところから名付けられたと言われています。
 現在の石神井の名は、往時、ある農家が井戸を掘ったところ、井戸の中から石棒1個が出てきたので、これを御神体として、石神井神社を造営したのが、郷名の起因になったと伝えられています。この石棒の長さは約2尺2寸、周囲の太いところは1尺4寸もあるという秩父緑磐岩で、これを掘りあてた農家の一族は、それ以来、石神(いしがみ)の姓を名のっている、と説をなす人がいます。
 さて、豊島郡石神井郷は、「東西一里十数町、南北一里数町、蝙蝠(こうもり)の翼を張りし形状」と記されていますが、東に谷原村、南に北田中村、西に関村、中央東に下石神井の5部落で構成されていました。
 そして人類が最も早くから居住したところは、石神井丘陵と呼ばれる池渕周辺であったことが、昭和47年の区民プール、野球場建設工事中に確認されました。いわゆる池渕台地から発掘された縄文中期以降、各時代の住居遺跡や遺物が、その証拠であります。また、この辺りからは12世紀初期からの領主、豊島氏の石神井城址を示す磁器なども多数出土し、その保存運動にも「石神井の史跡と緑を守る会」が活躍しております。
 豊島氏滅亡後、北条時代には太田新六郎が知行し、徳川時代には幕府直轄領となり、明治に入ってからは5部落が一つになって石神井村となりました。大正10101日の第一回国勢調査の時には戸数約1,000、人口5,000弱、昭和7101日、東京市編入の際は戸数2,000余、人口約万を数え、そのうち1,000戸が農業で野菜の供給地として知られていました。

 

豊島氏と石神井城
 鎌倉時代の末に石神井郷を領有した豊島氏は、葛西氏、江戸氏と同じ秩父流平氏の出で、武蔵野を睥睨する有力な豪族の一人でした。そして、四方百余間と言われる石神井城を築いたのは元弘年間(1331年)で、初代の城主は、豊島城主近義の孫、三郎兵衛泰景でありました。城郭は三宝寺池と石神井川の低地に挟まれた丘の上に建てられ、空濠や土囲で囲まれた典型的な中世の平城で、ひとたび空濠への水門を開けると、たちまち満水して、海水孤島のような堅塁であったと言われています。

 下って室町時代の石神井城主は豊島勘解由左衛門泰経でしたが、泰経は、武蔵守護の上杉頼定に背いた長尾景康に味方して兵を起こし、上杉の軍将太田道灌と戦いましたが、戦い利あらず、文明 9年(1477年)4月、石神井城は陥落して、豊島氏十代 、138年の権勢に終止符を打ちました。この時、最後まで奮戦して悲憤の涙を飲んだ若武者泰経は、家宝の金の鞍を愛馬につけ、愛馬諸共三宝寺池の水底深く身を投じたという伝説など、数々の哀れな物語が伝えられています。今でも、晴天雲なき日の寒月の夜に、照日の松辺りから池底を望むと、金の乗鞍が光っていると言われています。

 現在 石神井城址にある亀頂山密乗院三宝寺は、応永元年(1395年)に権大僧都幸尊が下石神井に開山したものを、豊島氏滅亡後現在地に移したと言われています。なお、石神井台にある豊島山無量院道場寺は、豊島氏代々の菩提寺で、泰経や一族の墓と思われる石塔三基が残されています。
 松尾芭蕉は、「名月や池を回りて夜もすがら」と詠みましたが、池渕の住民たちも、「池を回りて」いつまでもこの池を愛し続けることでしょう。(*この文章は平成27年の会員名簿より転載。)


 
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