町会の沿革3

◆町会の設立は1960年(昭和35年)

 戦前から町会はあったようだ。昭和13年(1938)から昭和20(1945)までの時期に作成された板橋區関町西町會隣組区分界図には
現在の町会とほぼ同じ区域が記されている。この図には慈雲堂病院(昭和4年開設)とその西側に中島青年学校寄宿舍が記されている。武蔵野中央公園は元中島飛行機多摩製作所で最重要軍需拠点だった。

 戦後GHQの政策により町会は一度解体したが昭和27年(1952)に町会の禁止が解かれ自治組織として再編成された。
地番整理により昭和24年(1949)練馬区関町1~6丁目となり地番に合わせてそれぞれの町会が設立……

わかば児童公園の防災倉庫内にあった「関町四丁目市民消火隊」の記述、また「関町四丁目交差点」の名称は当時の名残です。

 当町会は、旧関町4丁目地域をエリアに「関町4丁目町会」の名称で昭和35年(1960年)に発足しました。長年地域に居住している方々のお話によれば以前は関町北三丁目と一体の町会であった。昭和53年(1978)住所表示の変更に伴い関町北三丁目町会が設立し、関町北2丁目と関町南4丁目を対象に「関町南北町会」と改名し現在に至っています。


   
 遺跡が発掘された区営住宅    石神井川沿いの桜        関町4丁目交差点




 

町会沿革2

江戸時代に大きく開発された
関村は早くから開発され、中央には青梅街道(1606)南方には玉川上水(1707)
関村の西の台地には関村の守神としての天祖若宮八幡宮(1720)、
石神井川を挟んでその北の台地に本立寺が建つ。本立寺の開基は関村の名主井口忠兵衛による。

関町南4丁目26番地と西東京市との境は、千川からの「関村用水口」から富士見池周囲の田への水路であったようだ。
青梅街道北側は昭和の区画整理で江戸時代からの道は残っていないが、関町南4丁目わかば児童公園東側の道は
千川から青梅街道を渡って天祖若宮八幡宮への道で途中には井口稲荷があり江戸時代の信仰のみちであったか。
現在この道筋には仏教やキリスト教の施設が建ち並ぶ。
またカトレア幼稚園東側、関町南3丁目との境の道は「江戸の農業みち」であったと思われる。
ぶらっと関町 第2弾
「天祖神社→井口稲荷→(踏を渡れば)→本立寺→東へ進めば小関庚申塔」

 図の左が北    
 関村絵図(1784)絵図にみる練馬(1)より      現在の井口稲荷(関町北2丁目32番地)
 

町会沿革

人はいつから住んでいたのか  
石神井川に面した小高い丘には縄文遺跡が連なる。

隣接する西東京市には下野谷遺跡(現存・国史跡に指定)、富士見池から都営南四丁目第2住宅辺りが溜淵遺跡(現存無し)、
関町小学校から石神井川の縁までの辺りが葛原遺跡(現存無し)、その他天祖神社東側などで土器が発見された。

今から4、5千年前、水の豊富なこの地域に人はとどまって生活する家をつくり「むら」をつくった。
ぶらっと関町 第1弾
「天祖神社から富士見池そして早稲田大学学生寮の脇を抜ければ下野谷遺跡です」
晩秋の富士見池