富士見台地域は、古き時代から谷原と呼ばれ親しまれてきました。
谷原村には天保年(1830)頃,中通,蕪ヶ谷戸など6つの小字
(こあざ:小規模な集落や土地のまとまりを指す地名の一種)が
あったとされ、その後,時代が移り,大正時代に谷原1丁目町会
となりました。初代大沢要之助会長そして昭和初期二代目大沢藤吉
会長と受け継がれ、町の指導者としてご尽力いただきました。
昭和37年5月1日、住居表示に関する法律が施行されましたが、
私たちの町会も昭和39年11月に練馬区住居表示に関する条例に基づき、
古き時代から慣れ親しんだ谷原の地名から、「日本一の霊峰富士山を
望める地として駅名にある富士見台が良し」との先人達の声により
“ 富士見台町会 ” と改名、誕生し、初代会長に大野政吉氏が就任され
ました。
戦争末期には、激しい空襲の続く中で、点在した数少ない農家が
被爆罹災しましたが、戦後の平和が戻った頃には、蛙が鳴き、
蛍が飛び交う田園風景が広がり、五月の節句には、大きな鯉のぼりが
風になびき、七夕節句には軒先に竹笹を飾り、畑には麦の穂波がそよぎ、
夏は蝉しぐれと、とてものどかな風景が広がっていました。
その後、二代目宇田川興一会長,三代目大野喜三郎会長と受け継がれ、
大野喜三郎会長の在任中には、高度経済成長期による急激な人口の流入が
進み、町会加入者も一気に増加した為、お祭りや盆踊りなどを通じて
新旧住民の交流が積極的に図られ、変貌する町会の礎が築かれました。
平成10年、四代目大沢久子会長が就任された頃には、町会の加入世帯は
3,200余を数え、区内でも屈指の町会へと発展しました。
町内の児童生徒は、他に類を見ない3校もの小学校へ通学しており,
町会では健全な青少年の育成に取り組んでいます。
また、資源リサイクル等の集団回収を実施するなど環境問題にも
取り組み、会員の連帯の中で快適なまちづくりを進めております。
防災対策においても、地域の消防団と連携し、災害に強いまちを
目指して活動しております。
また、平成16年には、富士見台囃子が練馬区の登録文化財となり、
伝統文化としてしっかりと根付き、継承されております。
近年では、西武池袋線の連続立体交差事業や石神井川の改修、
東京都道環状八号線の開通など、富士見台地域は、地域の皆様の安全で
快適な生活環境を確保し、利便性を向上するためのまちづくりを着実に
進めてきました。
平成20年、現在の五代目笠原幸藏会長に引き継がれてからも、
こうした町会の地道な活動により、地域コミュニティの活性化が
図られています。
しかしながら、令和の時代を迎えた私たちの町会は、これまでにない
未曽有の困難に直面しました。
令和2年初頭より拡大した新型コロナウイルス感染症の影響により、
町会としての活動は長期間にわたり自粛を余儀なくされ、地域の行事や
集会、防犯・防災や環境美化活動など次々と中止・延期となりました。
誰もが先の見えない不安の中で生活を送る中、町会も新たな形での
つながり方を模索し、掲示板や回覧板を継続しながら、見守り活動や
声かけなど、できる範囲での地域支援に努めてまいりました。
特に、高齢者の方々や一人暮らし世帯への気配りは、町会の温かさが
光る場面でもありました。
「会えなくても、つながりは絶やさない」――そんな思いを胸に、
町会役員や地域の皆様が工夫を凝らし、小さなことから少しずつ、
地域の絆を守ってきました。
そして、感染状況が落ち着きを見せ始めた令和4年頃からは、
感染対策を講じた上で徐々に活動を再開し、地域のお祭りや
防犯・防災活動、環境美化活動など、少しずつ日常を取り戻す努力を
重ねています。
パンデミックという歴史に残る経験を経て、私たちは改めて
「顔の見える地域」の大切さを実感しました。
この経験を教訓に、これからの町会活動も時代に即した柔軟な形で
進めながら、地域の誰もが、「住んで良かった富士見台」、
「住みたい富士見台」のまちづくりに誠心誠意努力してまいります。